HISTORY

オリジナルのミニは、1952年に成立したブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)の技術者アレック・イシゴニスの指揮するチームによって設計された。
ミニ(Mini )は、イギリスのブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)が生んだ大衆車で自動車としての必要最小限を形にした設計は、登場当時、革命的とまでいわれた。
長く低迷したイギリスの自動車工業界の状況を反映し、生産、販売会社の名前は幾度も変わったが、 ミニ自体は2000年まで40年以上に渡り生産、販売が継続された。平成2年 (1990年) 頃には日本の企業がミニの製造、販売権を取得する計画もあったが実現せず、平成6年 (1994年)以降はドイツのBMWが、ランドローバーと同時にローバーを傘下とし、ミニにまつわる権利も手中にした。
BMWは新規に投入する同社初となるFF車をニューミニと位置づけ、それまでの資産(ヘリテイジ)を生かしたビジネスをすべく、傘下となった旧ローバーの技術者による車両開発を行ない、平成13年 (2001年) から英国のオックスフォード工場(旧ローバー社カウリー工場)で生産開始され販売されている。BMWのミニが登場したことで、初代「ミニ」は、「クラシックミニ」、「BMCミニ」、「ローバーミニ」とも呼ばれる。日本では優れたデザインや軽自動車相当にコンパクトなサイズが評価され、モデル晩年は日本が主要マーケットとなっていた。なお、イギリスと同じ左側通行であるはずの日本に輸入されたミニにも左ハンドル仕様車がある。これは日本で施行された自動車排出ガス規制(昭和50年 (1975年) 規制 – 昭和53年 (1978年) 規制)に対し、かつては規制値が近いカリフォルニア州仕様車(対米輸出車)を輸入していた時期があったためである。


イシゴニス・レイアウト エンジン

横置きエンジン方式自体は時代に先んじたエレガントな技術革新だったが、ミニと同じ二階建てパワートレインの「イシゴニス・レイアウト」を採用した車種は非常に少なく、イシゴニスの手になる、ミニの拡大版ともいえるBMCのADO14、ADO16、ADO17、ポストイシゴニスのADO27、ADO67以外では、フランスのプジョー・204、304やプリンス自動車時代に設計が始まった日産・チェリーと、ミッドシップのランボルギーニ・ミウラ程度しかなく、より広く普及して一般化したのは、イタリアで1960年代に開発され、トランスミッションをエンジンと直列に横置きして車両内での前後長を短縮した、ジアコーサレイアウトであった。
FF車のエンジンとトランスミッションの配置はメーカーごとにさまざまであったが、現在では、四輪駆動を主力商品とするメーカーであるアウディやスバルの上級モデルに縦置きエンジンのFFが見られるのみで、ほとんどのFF車はジアコーサ式の横置きエンジンとなっている。


デザイン

オリジナルの2ドアボディのデザインは、リアトランク用のオーバーハングをも切り詰めた、1950年代後期には類例の乏しかった純粋な2ボックスレイアウトで、全長は3 m ほどに過ぎなかった。それでもリアシートの後ろには(片隅を燃料タンクに取られてはいたが)最小限のトランクルームが確保されていた。10 in タイヤと前輪駆動の効果によって、床も車高もこの時代ではずば抜けて低く、ロードクリアランス(最低地上高)は実用車としての最低限レベル、車高は1,400 mm にも満たないが、大人4人が乗りこめるスペースが確保されていた。
当時、リアエンジン車では2代目フィアット・500(1957年)やスバル・360(1958年)のように、4座で3 m クラスを実現した事例もあったが、850 cc の水冷4気筒をフロントに搭載して大人4人定員とした乗用車で、ここまで小型化された事例はなかった。
このコンパクトなボディは、設計者のイシゴニスが自らのスケッチでデザインするという異例の過程でスタイリングされた。コンセプトと内部構造を熟知した設計者自身によるスタイリングは、機能に直結した合理性に富むもので完成度が高く、そのまま生産されることになった。ミニの実車を間近で観察すると目につく点のひとつにフランジ状に張り出した外板の継ぎ目があるが、これは組み立て時の手間を省いた結果である。


MK I 1959年-1967年

ミニは最初 ADO15(ADO はAustin Drawing/Design Officeを表す)というプロジェクト名で呼ばれ、最初のモデルはオースチン・セブン(しばしばSE7ENと表記される)及びモーリス・ミニ・マイナーの名でイギリス国内向けに発売された。「セブン」とは、第二次世界大戦前に大成功を収めたオースチンの大衆車にあやかったもので、「マイナー」は、「ミニ」とかけた「洒落」であるという。生産は元オースチン系の主力工場であるバーミンガムのロングブリッジ工場で行われた。1962年までには北米とフランスでもオースチン850、モーリス850の名前で発売された。
設計者イシゴニスの友人で、1959年と1960年のF1のコンストラクターズ・チャンピオンに輝いたクーパー・カー・カンパニーの経営者ジョン・クーパーは、当時英国内のサルーンカー選手権にトライアンフで参加していたが、ライバルであるロータス車の次元の違うハンドリングに太刀打ちできずにいた。この時イシゴニスにミニの試作車を見せられ、その驚異的なハンドリングに注目、何回かの実験とテスト走行の後、イシゴニスと共同で、機敏で経済的で、しかも安価な車を作ることを決意した。その成果として、1962年にADO50、「オースチン・ミニ・クーパー」と、「モーリス・ミニ・クーパー」が誕生した。
1964年にハイエンドモデルのサスペンションは、内部にオリフィスと空洞を持つゴムばねを、前後輪でパイプで連通し不凍液を満たしたハイドロラスティック(Hydro=水とErastic=ゴムの合成語)システムに変更された。この新しいサスペンションは柔らかな乗り心地で「魔法の絨毯」とも喩えられていたが、重量と生産コストが余計にかかり、またピッチングの制御が難しくセッティングの幅も狭いなど問題もあり、Mk III 前期を最後に元のラバー・コーンサスペンションに戻された。

ソース元 ーFrom Wikipediaー